寝違えて首が左に向けることができないという三十代のH女史の来院である。言葉使いも、姿勢も、仕草も、まさにキャリヤ・ウーマンチックなクライエントだ。「容姿端麗」というのが相応しい知的な女性で、インターネットで検索して当院を見つけたと言う。

問診から視診~触診と続けて、動診に入ると、とんでもないクライエントだった。自分に入ってくる情報はすべて「頭」で受け止め、判断、評価し、処理してしまうのである。動診において「からだで表現する」とは有機的形状を表現すると言うことなのか? 「からだにききわける」という表現方法は文法的に誤りがあるのではないか? すべて、こんな具合である。H女史から発せられる言葉は打算的な思考マインドからの産物としか言いようがない。

思考は原因を探す、分析する、理由を見つける、合理的な説明をする、解釈する、というような場合には役立つが、感覚という面ではまったく役立たない。意識を「考える」ことから「感じる」ことに切り替えなければならない。しかし、H女史のような思考型人間には「頭で考えないで、からだにききわけて」と言っても、そう簡単に頭から降りることなど難しい相談だろう。そこで、ある方法を試してみることにした。

それはタントラの手法で、もっともすばらしいもののひとつである。そして、H女史にこう言った。「今の貴女には、操体が難しい状態にある。そこで、貴女を操体モードに変えたいので、私の言うとおりにしていただきたい」と、提案し、H女史はこれに同意した。

タントラ・メソッドの開始である。まず、臨床ベッドから降りてもらい、部屋の中を、頭はもはやそこにはなく、からだだけしかないと思って歩かせてみる。しばらく歩かせた後、今度は、頭はもはやそこにはなく、からだだけしかないと思ってそこに座らせる。頭はないのだと絶えず憶えているようにいいきかせる。そして、頭のない自分を視覚化させてみる。さらにデジカメでH女史の頭のない首から下の写真を撮り、それを見せて、視覚化を拡大するよう仕向ける。頭は見えず、ただ、からだだけが見える。もはや頭のない自分に、ある意識的な呼吸とともに瞑想させるのだ。

からだに何か変化があるだろうか。どんな気もちなのか、どんな感じがするのか聞いてみると、「はかり知れない静けさと、途方もない無重量感が自分に起こっているのを感じる」と、返答してきた。問題となるのは、いつも「頭」である。このように頭なしの自分を思い描くことができたら、からだにききわけることもできるだろう。この感覚をつかんでもらうのに40分を費やした。そこで再度、動診を試みたのであるが、もう先ほどの講釈をたれることもなく、素直にからだの感覚をききわけることができるようになっていた。

具体的に言うと、右上肢が外側に捻じれ、同側の鎖骨が突出しており、胸鎖関節の下際に圧痛がある。そこで右手前腕の外旋を試みることにしたのであるが、その前に動きをイメージしてもらうことにした。まず、右手前腕を内旋位に決めておき、この状態で、外旋する動きを「頭」ではなく、「からだ」でイメージさせてみるのである。イメージできたら教えてくれるように言っておく。目を閉じたまま、右手前腕の外旋のイメージに浸っている ― そのまま、2分余り。そしてイメージできたと云う。さあ、動診の始まりだ! 「小指側を利かして・・・」と、私。むむっ! 力強い!! 腕に力が入っている様子はない、が、指先の動きにズーンとくるパワーを感じる。そして連動してくる動きの中で、快の一瞥があったのか、顔の表情で読みとれる。ここではあえて、気もちよさの確認をとらなかった。滑らかな動きが美しい・・・・・・まるで天女の舞のようにも見える。右肘の動きが主役になっているみたいだ。そこで、右肘の動きに目線を通すよう促す。連動はさらに全身へ、顔が天井に向いてきたところで、たわめの間に入ったようだ。歓喜の表情がみてとれる。2~3分味わっていただろうか、その後の脱力は、お陽さまに照らされた雪だるまが溶けていくように見えたのが印象的だった。このような動診、操法から右上肢の捻じれは、ほぼ整い、胸鎖関節付近の圧痛も解消している。主訴であった首を左に向けることも難なくできるようになった。

即、感想を聞いてみる。H女史曰く、「なかなか面白い体験だった」と。特に、右手前腕を外旋させるイメージについて、興味ある内容を語ってくれた。外旋させるイメージを、右手の指先から動く感覚としては捉えることができなかったが、何度か試みるうちに、下腹部辺りに意識が移り、そこに力と気持ちを集中して、動きをイメージすると、右手前腕の外旋する動きが見えたと言う。そして、動診の始まりにおいては、下腹部を中心に動かすように意識をもって、あとは私の言葉の誘導に従い、末端である手先から動きを通すことができた。下腹部とは下丹田のことだと思うが、本来、力のない足先、手先に意識をおいて動くのは、末端部から動きを通すという、原則に抵触することになってしまう。意識と動きは、別物なのかも知れない。よく研究してみたい。

また、たわめの間にあっては、「からだの軸が、心の軸に通ったような身心一体感を味わえた」とは、H女史の談である。「本来のからだの在り方というのは、たぶん、あんな感じなのでしょうね」とも言っていた。

物質文明の中にあって、生きていくには知識や経験、それに現実に対応しうる思考力が必要なのは言うまでもない。頭人間になるのも仕方のないことかもしれないが、「心」を置き去りにしていてはトータルな「生」を生きることができない。からだの感覚は精神世界に生きているということを忘れてはいけない。感覚は心とからだから生まれてくる。頭が感覚を生み出すことなど不可能だ。心とからだには「身心一如」という親密な関係性におけるバランスが存在し、そのバランスから感覚は起こってくる。

操体法が広く一般化されてきた今日、それがどういう操体法であるか、何を目的としているかといった特徴を求める傾向が強くなってきたように思う。心とからだの健康は別々にあるのではなく、同次元で述べられるべきものである。同時に操体法と、それを意味づけるための思想も一体のものであり、同次元で述べられるべきだと考える。しかし、社会は操体に対して、まだまだ身体的健康の構築を期待する傾向が強い。そうした中、操体の精神的効用にフォーカスし、心の歪みを正す哲学にクローズアップして、そこに重点を置くことにしたい。操体を、心の歪みを正すための手段として位置づけてみるのである。もちろん、身体的健康術としての効果は絶大なものなので、今後とも積極的に研鑽していく覚悟である。操体の恩恵がより多くの方々に、そして、より多方面に伝わることを期待するものである。