一年ほど前から今も月一回のペースで来院している37歳男性のM氏。彼が来院するきっかけとなったのは操体に理解を示している知人の精神科医S氏の紹介であった。このM氏、ある時、電車に乗っていて、駅で停車後、ドアが閉まる瞬間、そのドアとホームの間が広く開いているところをめがけて足から跳び込んでいたのである。気がつくとホームと電車に挟まれた格好でもがいていたそうだ。彼に一体何が起こったというのだろうか。そのあとはお決まりのコースで精神病院に入院ということになった。

六か月の入院生活、そして通院へと精神状態が安定してきたのであるが、精神科医のS氏曰く、「薬で安定しているのだ」と、投薬を止めてしまうと、また発症するかも知れないというのである。S氏は続ける、M氏の場合、罪悪感念が非常に強いので「自分は幸福になってはいけない」と、心の底から思っているのだそうだ。だからいつも不幸を探していて、自ら最悪の状態に身を投じるのだそうである。彼の目につくところには刃物類やハサミなどは置かないようにしているらしい。ますますもって引き受けられないクライアントだ。

 

しかし、S氏が考えるには、「罪悪感など必要ない」と、M氏に言葉でいくら言い聞かせても理解するような玉じゃない。「心」にアプローチして駄目でも「からだ」なら幸福感を味わうことができるのではないかと。そこで「からだ」サイドから「快」を味わうことで、根強い罪悪感に影響を与えることができるのでは、という思いからM氏を紹介してきたのである。操体が精神科医にそこまで期待されるのなら断るわけにもいかない、結局は引き受けることになった。精神安定剤等の投薬と操体法を併用するというものである。

 

まず一回目の臨床。問診では自覚しているからだの症状はないと答える。視診でも特に気になるような歪みは見つからない。仕方がないので僅かな歪みに目をつけて触診するも、反応に欠ける。正直言ってどうしようかと思った。こんなのに「快」など味わわせることなどできるものではないと、弱音を吐きたくなったものである。とりあえず動診でもしてみるか、ということになり、般若身経の動きを順にとらせてみた。前後屈、左右側屈、左右捻転と動きをとらせて、からだの感覚を確認したが、やはり何ともないと言う。何が何ともないのか意味不明だが、とにかく彼の反応には期待できるものがないといったありさまだ。しかし、これで終わったのではシャレにならない。

 

今度はもう一度、さきほどよりゆっくりと、そして両手の内外旋も加えて動きをとおしてもらう。するとどうだろう、やはり、末端の手指から動きをとおすべきであった。そう「不自然」が見つかったのである。なんと、彼の肩甲骨に動きがほとんど見受けられない。どの動きをとおしても肩甲骨の動きが感じられない、まるで感覚を無視しているかのようだ。ひょっとしたら、感覚できないとか、感覚がわからないからだというのは肩甲骨が自由に動いていないからかも知れない。

 

心の形はすぐからだの形になり、からだの形はすぐ心の形になる。心はからだであり、からだは心である。からだだけの病気を治す、あるいは心だけを矯正しようとして、どんなに努力したところで効果があがるはずはないのである。心で笑うと、顔の筋肉がすぐ笑う。これは一瞬にして、大脳、間脳、中脳、小脳、延髄を介して「運動神経」が働き、筋肉が動かされたのだ。腕に蜂の一刺をうけて痛く感じるのは、一瞬にして「知覚神経」をとおして大脳まで伝達されたからである。運動神経と知覚神経とは、からだと心の中間にあって、からだと心とを完全に一者にしているものだ。

 

からだには知覚運動神経という意識神経のほかに、無意識神経である自律神経がある。その自律神経は、交感神経、副交感神経の二つの系統によって成り立つ。この対称的な神経が、一つの器官を拮抗協力して動かしている。その自律神経の中枢は大脳の下にある間脳であるが、この間脳が大脳に起こる感情をまともに受けて、不快な感情をもつと、たちまち自律神経に不調を惹き起こす。高血圧、糖尿病などは交感神経の失調だし、胃潰瘍、ガンなどは副交感神経の失調である。この自律神経も、知覚運動神経と同じく、心とからだの二つを一者にしてしまっているのだ。

 

肉などをよけいに食べていると、交感神経失調を起こして、つい怒りたくなるし、煮野菜などばかり食べていると、副交感神経失調に陥って、クヨクヨした性格になる。背骨の運動ばかりすると、交感神経を刺激して暗い性格になり、腹の運動ばかりすると、副交感神経を刺激して落ち着きのない性格になる。このように自律神経を仲介として、心とからだとは離れることなく密接な関係というよりも、一者の両面というほかはない。心はからだを支配し、からだは心を支配する、というメカニックになっているのがよく理解できる。

 

ところで、このクライアントのM氏に話をもどすが、般若身経での動きから肩甲骨の動きにターゲットを定めることにした。仰臥位にて両膝1/2屈曲位から両上肢を真横伸展位にとらせると、左手掌は下向きであるのに対し、右手掌は上向きにしていた。そこで左右の手掌を逆にとらせると、背中が突っ張ると言うので元のポジションに戻して、左手に介助を与えて、左上肢全体を真横側方に押し出すように伸ばさせてみた。するとどうだろう、顔を真っ赤に紅潮させて、両膝は正中に圧迫して、腹部に向けてわずかに引きよせていて、まるでPNFのような全身緊張状態になっていた。即、中止させて、今の動きについて聞いてみた。 「どんな感じだった」 「力が入っているという感じ」 ここまでは予想どおりである。

 

次に 「今度は力で動かなくていいから」 と言っておき、押し出す左上肢の指先の動きに目線をつけてもらう。左手指先の方向に目線を向けていくように誘導する。動きがまったく変わってしまった。からだ全身の動きがスムーズである。この動きに伴って首が左に捻転し、同時に腰も右に捻転してきた。見るからに自然な動きである。感覚を確認すると、 「今、どんな感じなのか、からだにききわけて教えてもらえますか」 「ふつうの感じ」 「不快な感じはないですか」 「不快な感じはない、押し込んでいるという感じ」 そこで右に捻転している左側の腰に「意識」を置いて呼気を左腰にとおすようにさせてみる。「まだ、左腕を押し込んでいる感じですか」 「いや、腰から背中にかけて伸びているような感じ」 「それはイヤな感じですか」 「イヤな感じはない、少しイイ感じ」 「こんどは呼気に意識を置いて左腰にその呼気をとおしてみてください」 「この方がイイ感じ」 「そのイイ感じをしばらく味わっていたいですか」 「このままもう少し」 「では、そのまま抜きたくなるまで味わっていてください」 ・・・・・・ 一分ぐらい味わっていたと思う。そして脱力。回数の要求はない。

 

次に右手に介助を与えて右上肢を引き込んでみるように誘導した。左上肢と同じように目線をつけて引き込ませると、左上肢の押し込みの時よりも、両膝の右傾倒が増している。そして呼気に意識を置いて右捻転している左腰に呼気をとおすように指示した。感覚を確認すると、 「さきほどよりも背中が伸びてイイ感じ」だと言う。さらに、傾倒している両膝の左膝の外側から導誘を加えてみる。左捻転していた首が左側屈に移行し、背骨がのけぞるように反ってきた。感覚を確認する、 「今、どんな感じですか」 「肩甲骨あたりが温かくなってきた」 「それはイイ感じですか、きもちよさや心地よさといったものですか」 「イイ感じである、きもちよさはわからない」 「このまま味わっていたいですか」 「ええ、このまま」 「では自然に抜きたくなるまで味わっていてください」 ・・・・・・一分ぐらいして脱力してきた。回数の要求はない。ここで、仰臥位にして両腕を天井に向け、軽く肘を伸ばさせた姿勢から、左右の肩甲骨に両手を差し入れて、左右の腕を内外旋させてみる。スムーズに肩甲骨が動いているのが確認できた。

 

目線をつけた動きから局所に意識を置かせて呼気をとおし、さらには呼気に意識を置いて局所に呼気をとおしたものであった。局所に意識を置くか、呼気に意識を置くかの違いであるが、これには大きな差があった。それは呼吸と呼吸の間における一定の「間」である。息を入れてから出し始めるまでの「間」、そして息を出し終わってから息を入れ始めるまでの「間」。この「間」の長短が呼吸の質を大きく変えていた。「間」が短すぎると動きが尖ったものとなり、「間」が長すぎると間が抜けてしまい、動きの方向性がなくなってしまう。生命全体の動きを司る側面を「からだ」と言い、思考を司る側面を「心」と表現している。そしてその両方を媒体しているのが呼吸である。生命に含まれる一つのもの、からだとこころは分離したものではないということが見てとれた。

 

一回目の臨床はこんな感じであった。未だに本当の意味で「きもちよさ」、「心地よさ」はわからないとは言っているが、イイ感じの度合いは確実に深くなっている。「視線が安定してきたのと、以前より会話ができるようになった」とは、精神科医S氏の談である。着実に操体で味わう「快」から精神疾患が快方へと向かっているように思う。