自分は頭痛、肩こり、腰痛、膝痛、自律神経失調、めまい、むくみ等があり、症状、疾患のデパートだと自負するクライアントがやってきた。「自分ほどありとあらゆる症状を抱えている者はいない」といった様子である。まるで競争社会における能力自慢をしているかのようだ。病気になっても、まだ、競争をするというのか、他の者たちよりも自分の方がより多くの症状を抱えており、特別な存在であると主張している。人間の卑しさを垣間見たような気がした。

このクライアントはいろんな医療や療術を試してきており、自身も解剖学や生理学を学んできたに違いない。そして今、代替医療とやらを探し求めているのだそうである。問診では私の問いかけに耳を傾けることもなく、ただ自分が聞けることだけを聞いているといった具合だ。聞く耳をもたないというのはこんなことを言うのであろう。あまりにも何かに占拠されすぎている。

私はかってこんなうわさ話を聞いたことがある。

ある時、三つ子が母親の胎内で、生まれるのを待ちながらおしゃべりしていた。一番奥に押し込まれていた子供はこう言った。 「ボクは大きくなったら医者になりたい、そしてボクより悪い位置にいる人たちの面倒をみてやるんだ」、まん中にいる子供はこう言った。 「わたしは療術師になりたい、バランスをとる人にね」、 「ボクは探偵になりたいんだ」と、外界に一番近い位置にいる子供が言った。「探偵?」と、他の二人の子供たちは声を合わせて言った。 「そうさ、そうすれば毎晩のように入ってきてボクをグイグイ押しまくるのが誰か暴露できるからね!」

母親の胎内にいるときからの先入観である! 同じようにこのクライアントの生涯は前もって占拠している考えとともに生きているのだ。このクライアントは在るものを見ない、現実のひとかけらも耳にせず、味わうことなく、感じもせずに生きている、先入観が絶えず邪魔をしているのだ。

さて、このようなクライアントの診たてに入るわけであるが、今、どこを、どのように、どの順番に診るのか、一瞬、考えてしまった。が、「ありのままを診る」という言葉を思い出し、現在の純粋な自分の感応に委ねることにした。まず、始めに目につくのが姿勢だ、姿勢はとても重要である。姿勢はからだのエネルギーに方向を定めることを助けてくれる。その姿勢は両肩とも上がっていて猫背を呈しており、顎が出ている、次に気になるのが横眼の目線である。このような姿勢や目線からは攻撃的、暴力的、また懐疑的な感があり、全身がくつろいだ状態からはほど遠いものだ。そこで臨床は姿勢の改善から入ってゆくことにした。

ベッドに仰臥、両膝1/2屈曲位にとらせる、両腕は体側に伸ばして手掌は上向き、首を左右に回して筋肉を緩めさせ、眼は半眼か軽く閉じるよう指示する。この状態から腹式呼吸に入ってゆく、このとき、両手を重ねて手掌を腹部に添え、呼気時に補助を加える。ゆっくりとした深い腹式呼吸を10回も続けていると、両手の指先がこころもち内側に向いてきた。この時点ですでにからだの緊張が緩んで、姿勢の変化がみてとれる。

次に両膝を伸展させて両脚を少し開かせ、足先はやや外に向けておく、まだ顔に緊張が残っているようなので、顎を緩めて口を少し開けるように指示する。こんどはこの状態から何か一つの想念に心を遊ばせることに専念させる。というのも、からだの動きは骨格関節の動きだけに限定されるものではない、意識やイメージ、想いなどもからだの動きであり、連動し、快適感覚につながってくるのも操体に潜んでいる妙諦である。

このクライアントの場合、からだに多くの疾患を訴えており、不調を感じているというので、正反対の「健康」に黙想させてみることにした。「健康とは何か」これは実にすばらしい方法であり、からだのバランスをとるのにとても役立つものだ。「不健康」のとき、「健康」をもち込み、「健康」について考えてみるのである。すると、たちどころにエネルギーが変化する。というのも、「健康」と「不健康」は同じものであり、同一のエネルギーであるからだ。正反対のものをもち込めば、それが吸収するのである。「不健康」がそこにあるなら、「健康」に黙想すると、突然、自分の内側に変容が起こっているのがわかる。その変容から、からだの疾患はなくなり「健康」が湧きあがってくる。しかもそれは異なるエネルギーではない、それは同じエネルギーであり、その質を変えて一段と高いものになっている。それはからだの疾患と同じエネルギーであり、本質的に何ら変わりはない。

CIMG0531さて、この心の動きにおける具体的な動診と操法の流れを再現すると、次のようであった。

「あなたが想う健康感で結構ですから、健康とは何か? 考えていただけますか」

「う~ん、そうだなぁ、からだに重さを感じないというか、まあ、軽い感じかなぁ」

「では、その軽い感じを何かに表現するとしたら、どのようなものを想像できるでしょう、教えていただけますか」

「青空に浮かぶ白い雲のような ・・・・・・」

「それではほんの少しの間でいいですから、その白い雲になった自分を想像していただけますか、もし不快な感じがしたら即、中止してください」

「・・・・・・ どうでしょう、 今どんな感じがしているのでしょう、教えていただけますか」

「・・・・・・ 軽くて ふぁ~として 青い色がとてもきもちよくて いい感じです ・・・・・・」

「その青い色をしばらく味わっていたいですか どうでしょう? 」

「はい、このまま・・・・・・」

「では、そのきもちよさに心をすべて委ねてください、 なすがままに許して、 そして十分に納得するまで味わってください」

観察していると、からだには関節の動きがまったく起こっていないものの、頬の皮膚がピクピクと痙攣しているのがみてとれる、左手甲の母指側の皮膚もピクピクした動きがでてきた。腹部もアメーバのような内動が感じられる。もっとも驚いたのは呼吸のサイクルが非常に長くて深く、吸息と吐息のみならず、保息と止息も長い間をもっていた。

こういった心の動きにおける動診と操法においては、クライアントの眉間部分に少し圧をかけるようにして中指の指頭部を当てて対応していた。この臨床における気の通し方については、いとまがないので別の機会に譲ることとしたい。

まだベッドに横たわっているクライアントに「気分はどうか」と聞いてみる。「息を吸うと、鼻の奥から喉に流れる部分に涼しい風があたっているような感じがして心地いい」と答えてくれた。次に、起き上がって深呼吸をしてもらい、体を動かしてみた感覚について、さらに感覚をきくと、「からだがだいぶ軽くなったようだ」と妙に正直に答えてくれたのだった。このからだの変化について、きもちよさが導いてくれた結果だと説明して一回目の臨床を終えた。

今回の臨床で気づかされたことは、臨床というものは動機をもっていないということであった。

だからこそ臨床には中心がないと言える。動機も中心もないので、その中には当然、自己は存在しない。臨床は一つの中心から働きかけるのではなく、「無」から行動するということだ。「無」からの「感応」、それこそが臨床の何たるかであるまいか。

集中する精神は過去から行為するが、臨床は現在のなかで現在から行為する、それは現在の純粋な感応である。それは決して反応ではない、それは結論によらずに行為することができる。それは実在するものを見ることから行為する、ある物事、ある状態について、事実あるがまま見ることこそ真の臨床であるという臨床真理の一端を一瞥することができたように思う。